第44回日本書展
「内閣総理大臣奨励賞」


 

第44回日本書展の第一席「内閣総理大臣奨励賞」は、四潟邦淳さんが受賞されました。受賞後の感想などをうかがいました。受賞者の四潟さんは、次年度から同人会員に推挙されます。

Q1 受賞の知らせを受けたときの感想は?

9月21日の夜、家事を終えて自宅のリビングでくつろいでおりますと、玄関のチャイムが鳴り、「電報です。お祝いの電報をお届けに参りました!」という声がドアホンから聞こえました。突然のことで、急いで印鑑を持って玄関に走りました。オレンジ色の台紙に、美しい花束の押し花で彩られたお祝いの電報でした。
胸をドキドキさせながら台紙を開くと、「審査の結果、内閣総理大臣奨励賞と決定いたしました。おめでとうございます。」という佐伯司朗先生からのお言葉がありました。自分の作品が日本書展の第一席を受賞したということに大変驚き、電報を手にしたまま右往左往してしまいました。
しばらくして我に返り、夜分遅くにご迷惑かもしれないと思いながらも、翌朝まで待てず、すぐに古川先生ご夫妻にお電話をいたしました。古川司源先生、古川司邦先生は「おめでとう!」と、とても喜んでくださいました。続いて電話した娘は、私から夜遅い時間に突然電話が来たことに驚いていましたが、受賞を知らせると「お母さんおめでとう!良かったね。」と言葉をかけてくれました。奈良に住んでいる姉にも電話をすると、まるで自分のことのように喜んで、「ぜひ会場に見に行くからね。」と言ってくれました。夜分にも関わらず、手放しで受賞を喜んでくださる先生方や家族の姿に、受賞の実感は徐々に高まりました。電話連絡がひと段落したところで、仏前の亡き夫にゆっくりと報告をしました。
日を改め、佐伯司朗先生には直接お礼を申し上げる機会を頂戴しました。喜びとともに、第一席受賞の責任をますます肌で感じています。

Q2 作品の題材とそれを選ばれた理由は?

今年は、『西本願寺三十六人集』の中から『貫之集(上)』を選びました。『西本願寺三十六人集』は二十人の書き手によって書写されたものと言われていて、その文字の美しさや料紙の豪華さは、優美な王朝文化を思い起こさせます。
今まで日本書展には漢字、仮名、写経など、毎年テーマを決めて勉強し、出品してまいりました。特に、ここ数年は仮名作品に魅了され、一昨年の日本書展では『元暦校本万葉集』に取り組みました。題材の雰囲気を再現するため、青と紫の繊維をところどころに漉き込む「飛雲」という落ち着いた色味の料紙を用いました。文字だけでなく、料紙の選定も作品の一部であるという仮名作品の奥深さを再認識し、次の出品では華やかな料紙を用いた仮名作品に取り組みたいと考えるようになりました。そこで、文字と料紙との絶妙なバランスの美しさが魅力的な題材として『西本願寺三十六人集』を選びました。
まずは、『西本願寺三十六人集』の二十人に及ぶ書き手全員の一部分ずつを勉強しました。ところが、一部分とはいえ、その膨大な量と二十人の書き手の特徴を捉えることは大変なことで、昨年は出品を見送らざるをえませんでした。一年かけた勉強の末、今年こそはと、『西本願寺三十六人集』のうち特に第一番の能書家である藤原定実(推定)の筆によると言われる『貫之集(上)』を選びました。

Q3 作品を仕上げるうえで特に苦労された点は?

一つは、料紙一枚一枚に合わせた書表現です。『貫之集』は平安時代の能書家の藤原定実(推定)の筆によるものと言われていて、見れば見るほど美しく、平安時代の雅な文化を想像させます。少しでもその美しい味わいに近づけたいと思い、今回は、蝶鳥の料紙を翠祥堂に注文して、特別に作って頂きました。特に、最初の一枚目は、『貫之集』の本物を模して作られた美しい料紙を使用しました。
特注で作られた華やかな料紙を前に、胸を躍らせながら作品制作に取り組み始めましたが、その雅な線の美しさを表現するのはとても難しいものでした。机に向かい、一枚の料紙に書いているときには作品の一部分しか目の前に見ることができませんが、会場に展示され、作品全体を俯瞰したときに、一体感を持った作品となっているかを常にイメージしながら作品を進めていく必要がありました。華やかな料紙に見劣りしないよう、色の濃い染紙には太くきつい線、白い紙には明るい線など、料紙に合わせてふさわしい線質を繊細に書き分け、表現することは苦労の連続でした。下書きの時点で、行間がつまっていたり、また、歪んでいたり、墨の濃淡の調整がスッキリせず、先生方からご指導を頂いておりました。お清書では、行間の調整、字の強弱等、考えながら書き進めました。
もう一つは、時間の管理です。2年がかりの取組みということで、清書は、昨年の暮れ辺りから書き始めましたが、細かく神経を使う作業なので、二時間もすると目がかすみ、身体が凝り固まって、机に向かうことはできません。休憩をとりながら毎日コツコツと書き進めました。また、今年の始めに膝を骨折してしまい、重症ではないものの、ギブスをはめて生活することになりました。不幸中の幸いで、手は大丈夫でしたので、作品制作自体にはほとんど影響なく進めることができました。しかしながら、ギブスをはめたことにより家事等の日常的な動作に普段より時間がかかりますので、書に向かう時間を捻出することに例年より意識を向けました。

Q4 ところで、書を始められたのはいつですか?

小学生の頃から手習いをしていましたが、書道を本格的に始めたのは、結婚後すぐ、高校時代に書道の担当をしていらした先生が開塾されたのを耳にし、美しい字を書きたいとの思いから教室に通いはじめました。先生は仮名がご専門で、「いろは」から連綿、作品制作へと教えてくださいました。
しばらくして、主人が大阪から東京に転勤となり、それに伴って私も奈良から埼玉に引っ越すことになりました。突然の引っ越しでしたが、転居先でも書道を続けたいという思いがあり、お教室を探しました。しかし見知らぬ土地で右も左もわからず、なかなか見つけることができませんでした。やがて娘が生まれ、幼稚園に行くようになって、友人の紹介で、娘が古川司邦先生のお教室に通うようになりました。聞けば、大人コースも開設されているとのことで、二人目の子が幼稚園に上がったのと同時に、私も一緒に入塾させていただきました。ようやく念願かなって再び書に向かうことができるのだと、心躍らせながら入塾した日のことを、今でもよく覚えています。
お稽古は、書の勉強が熱心なのはもちろんのこと、同世代のママ友も多かったので和気藹々とした雰囲気がありました。先生方には、書道に限らず、人生の先輩として、何でも親身になって相談に乗っていただきました。見知らぬ土地である埼玉に越してきて数年、お教室に通うことで、書の勉強ができるだけでなく、子育ての息抜きの場として、心の安らぎを得ることができました。子供たちにも、母親が楽しく勉強する姿を見せることで、勉強に年齢制限はないことや、継続することの大切さなど、言葉にせずとも多くのことを感じてもらえたのではないかと思います。
また、大好きな書を長く続けてきたことで、師範試験を受ける機会を何度か頂きましたが、その都度、大きな病気をしたり、主人との別れがあったり、また、度重なる骨折で歩けなくなったりと、残念ながら受験ができませんでした。落ち込むこともありましたが、先生方ともお話をしたおかげで、今では運命として受け入れ、受験のために勉強したことが、私にとってプラスになっていると考えるようになりました。気づけば、子供も成人し、お教室に通い始めてから三十六年経ちました。変わらず、古川司源先生、古川司邦先生のご指導を受けております。

Q5 書の魅力はどこにあると思いますか?

硯に向かって墨を磨るときの「さあこれから始めるぞ!」という、ピンと張りつめた緊張感と、辺り一面に立ち上る墨の香りが大好きです。それは、まるで異世界への誘いであり、何もかも忘れ、書くことだけを楽しみ、心が洗われるひとときは私の人生にとって欠かせないものです。
また、書は一見すると平面でありながら、筆で描く線や字形、濃淡やかすれなどによって、彫刻や絵画に負けないほどの立体感を持っているのも魅力的です。特に仮名作品は、ひとつの和歌でも、どの仮名を使うか、どのように散らすか、などを考えて書くことで、和歌に込められた詠み手の感情をどのように解釈しているかを表現します。更に日本固有の美術品ともいえる料紙に書くことも、その芸術的価値を高めていると思います。

Q6 最後にこれからの抱負について一言お願いします。

この度、『内閣総理大臣奨励賞』という身にあまる賞をいただき、佐伯司朗先生、佐伯方舟先生をはじめ、現代書道研究所の先生方、本当にありがとうございました。
これまで生きてきたなかで、これほど光栄なことはございません。この先、どれほど恩返しをできるかわかりませんが、微力ながら頑張りたいと思います。
そして、今まで育ててくださった古川司源先生、古川司邦先生には、やっと今までの恩返しがひとつできたと、本当にうれしく思っています。これからもまだまだお返ししなければならないことがたくさんあります。
書道を続けていたお陰で、たくさんの友人に恵まれました。社中の皆さんとはお会いするとお互い励ましあったり、助けあったり、楽しい話をしたり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
家族にも感謝の気持ちを持たずにはいられません。特に夫は存命中、私が書道をすることに対してとても寛大で、協力的でした。照れ隠しだったのか、今となってはわかりませんが、私が書の勉強をしているときは静かで良いと言って、どんどん勉強させてくれました。娘も幼稚園から大学まで書道を続け、結婚・子育てを経て、書道を再開し、古川先生の所でお世話になっています。親子で同じ勉強を突き詰めていくことはお互いに刺激的で切磋琢磨でき、良いことであると思っています。
佐伯司朗先生、佐伯方舟先生、古川司源先生、古川司邦先生、現代書道研究所の先生方、これからもどうぞよろしくご指導いただけますようお願い申し上げます。

インタビュー動画

 

四潟 邦淳 (ヨカタ ホウジュン)

現代書道研究所 幹事
燕京書道交流協会 会員

師 古川司源 古川司邦

 

 

 

 

 


第44回日本書展
「文部科学大臣奨励賞」


 

第44回日本書展の第二席「文部科学大臣奨励賞」は、中嶋藤祐さんが受賞されました。受賞後の感想などをうかがいました。受賞者の中嶋さんは、次年度から同人会員に推挙されます。

Q1 受賞の知らせを受けたときの感想は?

9月21日水曜日の午後8時過ぎ、会社から帰宅してリビングに入ると美しい押し花があしらわれた電報が届いていました。もしや、と思い開けてみると「第二席おめでとうございます」と書いてあり、嬉しさのあまり、夫に向かって「やったよー!!」と大きな声で叫んでしまいました。
翌日、佐伯司朗先生のお宅にお電話をすると佐伯方舟先生が出てくださり、「おめでとうございます。今回の賞はきっとお祖母様と伯父様が導いてくださったんだね。」と仰ってくださり、胸が詰まる思いでした。
佐伯司朗先生・佐伯方舟先生、現代書道研究所の先生方、そして直接ご指導いただいている松藤春蝉先生、松藤司嘩先生、姉・中嶋藤粹にはこれまでの感謝の気持ちでいっぱいになりました。

Q2 作品の題材とそれを選ばれた理由は?

『仏説弥勒成仏経』を書写しました。
もともと今年は違う題材を臨書しようと準備していたのですが、6月4日に祖母が、そして6月30日に伯父が祖母の後を追うように亡くなり、慌ただしさと大きな喪失感のなか、夏を迎えました。そこで改めて作品制作について松藤春蝉先生に相談すると、「日本書展でお経を書いて、二人の供養をするのはどうだろうか」とご提案いただきました。私も「作品を書くことで、自分を大切に思ってくれていた二人を供養したい」という気持ちが強くあったので、松藤司曄先生から日本古写経集成の『石川卿仏説弥勒成仏経』のお手本をお借りして、書くことにしました。
以前、母の23回忌と父の7回忌が重なった際に、『金剛般若経』を書きました。その作品を書いていた時のことを思い返すと、書くのが大変で辛かったという思いは一切ありませんでした。母は私が生まれてすぐ1歳の頃に、父は中学生だった頃に亡くなりましたので、大人になるにつれ、親孝行ができない寂しさを抱えておりました。しかし、そのときに写経したことで、両親の死にきちんと向き合い、まるで父と母に気持ちが伝わったような感覚を覚えたことを思い出しました。
今回、先生にお経を書くことをご提案いただき、背中を押していただけたことで、急遽の変更となりましたが「祖母と伯父のために」と心を決めて書き始めることができました。

Q3 作品を仕上げるうえで特に苦労された点は?

一つめは、書風の表現です。具体的には、題材が持つキリッとした中に少し柔らかさを感じる文字をどのように表現したらよいものかと悩みました。メリハリをつけて書きたいと思っているのに柔らかくなりすぎて、なんとなくもったりした雰囲気になってしまうなど、頭では理解しているのに思ったように筆で表現することができないときは気持ちを切り替えるのに試行錯誤しました。
二つめは、限られた時間をどう使って書くかという点です。私は会社員としてフルタイムで仕事をしているため、平日に筆を持てる時間は基本的に夜9時以降でした。ときには、深夜0時を回っても書き進める日もあり、夫が心配して声をかけてくれたこともありました。休日は朝9時から夜8時まで書きました。作品制作中の家事は、すべて夫が担ってくれました。作品制作に集中するための環境づくりをフルサポートしてくれた夫には感謝の一言に尽きます。
三つめは、体調と墨の状態の管理です。自分の体調も墨の状態も日々変わります。その中で、同じ調子で作品を仕上げるために、体調管理にはとても気を使いました。しかし、お盆休みに入って2日目、新型コロナウイルスに感染してしまいました。当初は、お盆休み前半には仕上げて提出する計画を立てていましたが、感染から4、5日間発熱、頭痛などが続き作品制作に手がつけられなくなってしまいました。感染予防も含め体調管理を意識していたので、感染してしまった自分への苛立ちや体調の悪さも相まって、予定が狂ってしまったことにとても焦りました。そのようなとき、松藤春蝉先生から「お二人の供養のために、とにかく最後まで書きなさい。」というご連絡をいただき、諦めずに最後まで書くことができました。落款を入れる際は、いつも教室で直接ご指導をいただきながら書いていたのですが、今回は自宅隔離中のため、電話とLINEによるご指導をいただきながら仕上げました。自宅隔離期間も終わり、職場復帰する日の朝、仕事へ行く前に教室に伺い、先生に作品をお預けした時には達成感でいっぱいになりました。

Q4 ところで、書を始められたのはいつですか?

6歳の時、松藤書道塾に入塾しました。
きっかけは、先に通っていた3歳上の姉が、たまにお稽古の後に持って帰ってきてくれる「あめ玉」でした。松藤書道塾ではお稽古が終わると当たりくじ付きの飴かガムがもらえました。今思えば、たぶん姉は自分の飴が当たったときに持って帰ってきて、私にプレゼントしてくれていたのでしょう。「あめ玉」を目当てに行った初日のお稽古で、なんと私は2回連続「当たり」を出し、結果的に「あめ玉」を3個もらってきたことを今でも覚えています。最初に当たってしまったものだから、「また行けば当たりがでるかな?」という子供心から抜け出せなくなりました。
その後、小学校、中学校とお稽古を続けていましたが、あまり真面目に頑張っている子ではなかったように思います。お稽古に行きたくなくて、サボってしまったときもありました。そんな私でしたが、中学3年生の後半に差し掛かった頃には、「こういう風に書くとお手本と同じになるなぁ」「あぁ、こんな風に筆を使うといい感じに書ける」など、何となく自分で書き方を模索するようになっており、その年の湯島天満宮奉納書道展では上位の賞をいただきました。
高校時代は、ソフトテニス部の活動を本気でやっていましたが、書くことがとても楽しく、書道も本気で頑張って銀河書道作品展への出品も続けました。
大学は二松學舍大学で国文学を専攻し、好きなだけ書道の授業を受講しました。合わせて、松藤書道塾のお手伝いをさせていただきながら、各種展覧会のための作品制作に時間を使っていました。
私は元々才能があるタイプではないので、とにかく量を書いて上手くなる以外に道はないと思い、学生時代は書けるだけ書きました。今は、学生の時ほど書けてはいませんが、これからも大好きな書道を続けていきたいと思っています。

Q5 書の魅力はどこにあると思いますか?

努力を裏切らないというのが魅力だと思います。
特に私自身がそうですが、前述したように小・中学生の頃には、これといった賞を頂くような字は書けていませんでした。人によってスタートから器用で上手い人もいれば、そうではない人もいます。上手くなるスピードも人それぞれです。それでも、上手くなりたいと思って書き続けると必ず段々成長する点が良いなと感じます。
もちろん、毎日少しずつでも筆を持つのが一番良いとは思いますが、そうはいかない日も当然あります。生活スタイルや自身のライフスタイルに合わせて、書きたいときにいつでも取り組める書道は、その人なりの努力で成長していける趣味でもあり、人生の一部になる存在だと思います。

Q6 最後にこれからの抱負について一言お願いします。

この度は『文部科学大臣奨励賞』という素晴らしい賞を賜り、誠にありがとうございます。また、同人推挙という名誉を賜り、佐伯司朗先生、佐伯方舟先生をはじめ現代書道研究所の先生方に深く感謝を申し上げます。
今日からまた新たな書の道のスタートラインに立ったと感じています。
子どものころから今日まで書道を習うことを応援し、天国で見守っていてくれている亡き父、母、両祖父母、伯父、そして今でも応援してくれる親戚の皆様、作品制作に没頭する時間を与えてくれた夫にはあらためて感謝の気持ちでいっぱいです。特に今年6月4日に旅立った祖母、そして6月30日に後を追うように旅立った伯父には、今回の受賞を直接報告できないことが残念でなりませんが、きっと天国で喜んでくれていることと思います。
いつも車椅子で日本書展を見にきてくれていた祖母は新型コロナの影響で、ここ数年見に来ることができないままに旅立ってしまい無念でなりません。以前、一緒に見に来て作品を眺めてくれた姿が頭に浮かびます。「コロナが収まったら一緒に行こうね」と話していたので、今回の受賞作品を空の上から見てくれていると信じています。
そして、今年の作品は、夫の協力がなければ仕上がりませんでした。私の我儘を受け入れ、協力してくれる家族がいることへのありがたさを改めて実感しました。
最後に、ここまで育てていただいた、松藤春蝉先生、松藤司嘩先生、姉・中嶋藤粹に感謝申し上げます。今後ともご指導賜りますようお願い申し上げます。そして日本書展の結果が告知されて、すぐにお祝いの連絡をいただいた松藤書道塾の皆さまにも感謝しております。
この度は、本当にありがとうございました。

インタビュー動画

 

中嶋 藤祐 (ナカジマ トウユウ)

毎日書道展 会友
日本書道美術院 教育部審査員
近代詩文書作家協会 準会員
千葉市美術協会 会員
現代書道研究所 評議員

師 松藤春蝉 松藤司曄