終戦を決意された際の御製
御製(ぎょせい)とは天皇陛下がお詠みになった和歌(短歌)を敬って言う言葉です。皇后陛下など皇族の方のお歌は御歌(みうた)と呼ばれます。
戦災地視察
遺族のうへを思ひて
爆撃にたふれゆく民の上をおもひ…
臘染め
ロウを溶かして布に書き、染色をしたろうけつ染めの作品。
この染色は、特に染色を学んだ訳ではありませんが、司有の長女・方舟が担当しました。
ロウの温度や線を引く速さで、仕上がった後の色の濃い薄いが変わってきます。
金泥
純金を細かくした粉末を膠で溶いて書きます。墨よりも粘りがあるので早くは書けません。完全に乾いてから表面を磨くと独特の輝きが生まれます。
新美南吉 詩
新美南吉は1913年愛知県半田町に生まれ、1943年咽頭結核で永眠した。わずか30年の一生の中で、おびただしい童話・童謡・小説・詩を書いた。「新美南吉童話全集」「新美南吉詩集が編まれ、研究者が激増している。しかし南吉の真に歌いたかったのは、此の「貝殻」のような世界であると司有は思う。
自詠 短歌
司有はいろいろな町や史跡を訪ねて自分の感じたことや思い出を自分の歌として詠んでいます。
奈良の法華寺は大和三門跡に数えられる尼寺です。
藤原不比等の住居であったものを聖武天皇の皇后である光明皇后が総国分尼寺として建立しました。
この歌の中の光明子(こうみょうし)とは光明皇后の別称のことです。
自詠 短歌
昭和五十二年、秋の早朝、室生寺を訪れた時、連作が生まれた。
時刻は朝五時ごろであったかと思う。旅に疲れていた私を驚かしたのは、暁闇の室生寺の奥の院道に点々とともる蠟燭のあかりであった。私より早く、この暗い道を御仏を念じながら登っていった女人がいたのである。その女人もまた信心せずにはいられない逆境の人であったのであろう。女人高野といわれる室生寺を、旅の疲れの中で、ひっそりと訪れたことは、明朗な旅よりも深い意味があったと思っている。
岡野弘彦 短歌
岡野弘彦先生は國學院大學の名誉教授として万葉集などの古代歌謡や王朝文学の研究をされ、昭和天皇をはじめとする作歌のご指導をされていました。
この歌は岡野先生が釈迢空先生から出発された後の歩みのさびしさを思う。理想的にも、幻想的にも、いつも、ふるさとに決別しながらも回帰しようとする苦闘のはてに、ここまで個性を打ち出されるに至る過程はしみじみとゆかしく尊く思われる。
司有は、「さだまさしデビュー15周年記念コンサートプログラム」に「飛翔するシリウス星さださん讃歌」と題した1,000文字ほどの文章を寄稿しています。その中で、歌手・さだまさしさんを「現代の最高の詩人(うたびと)」と賞しています。司有は、この「桃花源」の他にも「邪馬臺」や「防人の詩」などさだまさしさんの楽曲の歌詞を幾つも作品にしています。また、1982年発売のさだまさしオリジナルアルバム「夢の轍」のジャケットタイトルも司有がデザインしたものです。
さだまさし 詩
「あなたが好きです」
中島司有司有先生を偲んで
さだまさし
やれ、軟弱だ、戦争賛美の唄を歌う歌手だ、とさだまさしがいわれのない批判に晒されて、一番世間でやっつけられている頃、中島司有先生は僕を庇うように忽然と力強い味方になって颯爽と現れた。ご自身の個展でなんとさだまさしの詞を取り上げて書いてくださったのだ。國學院を中退している僕には眩しい母校の「大教授」が落ちこぼれのつたない歌を取り上げて下さる。何だかそれだけで無言のエールを贈られたようで勇気百倍だったのを憶えている。
恐れ多くて最初にご案内いただいた個展には気が臆して伺えなかった。銀座の個展の時、勇気を振り絞って出かけてやっと先生にお目にかかった。母校の教授、というだけで緊張する僕を、包み込むような暖かさでお迎え下さったっけ。それからひどく興奮して会場を歩いた。先生が書いて下さった僕の詞の中で「防人の詩」の前に暫く立ち止まった。思わず身体が震えた。文字というものの底知れない深さに打たれた。「ありゃあ」と深く息を吐いた。「僕の歌なんかよりずっと心に響くなあ」と。
それから先生は幾度もさだまさしの歌を取り上げて書いて下さった。いつも、図録に載った自分の歌を恥かしさ半分、誇らしさ半分で眺めた。
「夢の轍」というアルバムは、今年に入って三軒茶屋駅の喧嘩殺人公判で裁判長が引き合いに出して話題になった「償い」という曲を含む中期のアルバムで、いわゆる「通」には評判の高いアルバムだったが、この時先生の個展に伺って感動したスタッフが題字の揮毫を先生にお願いした。先生は急なお願いにもかかわらず、アルバムのジャケットのデザインまでして下さった。これは今でも宝物である。
丁度その頃コンピューターが普及し始めた頃で、先生の弟子でもあり僕の同級生でもある友人が「先生の文字をフォントにしたい」と言った事がある。まさに日本の文字を伝えるのに先生の楷書ほど美しいものは無いと思う。先生の書かれた「般若心経」の前で随分永く立ってながめたのを憶えている。
ある時、「私の好きな言葉です」と添え書きされた書が余りにも素晴らしく、とうとう無理を言って譲っていただいたものがある。僕はその言葉をタイトルに歌まで作った。それにはこう書いてあった。
「あなた が 好きです」
何という空の高い、背筋の綺麗な伸びやかで清々しい文字と言葉だろう。まさにそれは先生の御心そのものであった、と今にして切なく偲ぶばかりである。また国宝を失った気がする。
合掌
(「新美術新聞」平成14年9月1日号より)
さだまさし 詩
司有は、「さだまさしデビュー15周年記念コンサートプログラム」に「飛翔するシリウス星さださん讃歌」と題した1,000文字ほどの文章を寄稿しています。その中で、歌手・さだまさしさんを「現代の最高の詩人(うたびと)」と賞しています。司有は、この「桃花源」の他にも「邪馬臺」や「防人の詩」などさだまさしさんの楽曲の歌詞を幾つも作品にしています。また、1982年発売のさだまさしオリジナルアルバム「夢の轍」のジャケットタイトルも司有がデザインしたものです。
周茂叔 詩
周子は、蓮は君子に似た徳があるので、他のどんな花よりもこれを愛することを述べ、ひそかに陶淵明の菊を愛したのに比べ、世俗の人が牡丹の持つ富貴な趣を好むのと異なることをあらわしたのである。
本紙とマットは共裂(ともぎれ)で周囲のマス目形(ますめがた)更紗(さらさ)模様は、鈴木 一(すずき はじめ)氏による染色です。布の中央部分にマス目の線を引き、書き間違いが許されない一枚限りの制作でした。
薄田泣菫 詩
昭和21年春作「再建書道展」 入賞 薄田泣菫の名作を手製の巻子本で出品。戦火の中を生き残って、展覧会に参加できることさえ不思議であった。司有22歳。(制作時・司有コメント) 後に額に仕立て直し、料紙に古いかたちの仮名を入れて書き、漢字の横には原文の通り朱色の墨でふりがなと句読点を入れてあります。
欲望や世俗の雑音に惑わされず、品格高く清らかな心を保ち飾らない素の自分自身に心地よく落ち着いて生きる事。
伊馬春部 短歌
1970年にアメリカで出版され、日本では1974年に新潮社より出版された「かもめのジョナサン」。
飛ぶという行為自体に価値を見出し、様々な工夫や研究をしたかもめのジョナサンのことを歌会始め・召人の伊馬春部先生が歌に詠まれました。司有は愛知県伊良湖岬を訪れた時、飛び交うカモメにジョナサンを見たのです。
高橋新吉 詩
高橋新吉は1901年愛媛に生れ、少年時代からはげしく屈折した歩みに入り、ダダイズム運動から独自の詩境に進み、妥協のない精神遍歴を重ねて来た。今も、歩みつづけている。
自詠句
戦場で亡くなった無数の兵士を悼む文章で、戦争の悲惨さと戦没者への深い哀悼の意を表している。
北原白秋 詩
しみじみと東洋的思惟にひたりながら、きらきらと湧く詩情を楽しむ白秋。「水墨集」の扉裏の文章と「雲母集」の詩を併せて書いた。
北原白秋 詩
与謝野晶子 短歌
与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に収録された「星の子」を水彩絵の具を用いて書いています。絵の具は水彩ですが、筆は墨で書く時と同じものを使用しています。
町田トシ子 詩
無数にのぼる惨虐をうけた人たちに、黙祷をささげ、戦争否定の声を絶やさないことを誓いましょう。(制作時・司有コメント)
燋土というのは原爆や戦火で焼き尽くされた大地を指す。焼け跡に残されたわずかなものを拾い集める事。ただ物を拾うだけではなく、原爆によって家族など、生活のすべてを失った人の悲しみを表している詩を書いた。
臘染め
一面に燃えさかる火の原野を染め出してみたいと思った。手法が絵画的だといわれるのは覚悟の前。司有はあらゆる造型手法を駆使して、文字や言葉を、その文字らしく、言葉らしく表現しぬこうと思う。それが書だと信じている。
雪
童話の中いこどものように話しかけ歌いかける三吉。この至純な魂が三十歳前後の三吉の心に宿っているのだ。原子爆弾にあわなかったら、もっと、 別の大詩人が成長していたかも知れない。戦争の罪悪を思う。
昴
わが心の陰を
峠三吉(1917~1953)短いその生涯を純粋に生き、特に戦後平和運動に献身的な努力をした。
峠三吉 詩
峠三吉は純粋な心と豊かな情操を持ちながら、広島の原子爆弾による後遺症で、36歳の若さで亡くなった詩人です。
この作品「序」は全25編よりなる「原爆詩集」の巻頭の詩です。そして広島平和公園に立つ「峠三吉の碑」にも刻まれています。
峠三吉 詩
原爆で破壊された広島の街を、静かな河のイメージを通して描いた詩とされる。荒廃した現実と、かつての穏やかな風景の記憶が対照的に重ねられている。
限りなき弧を渡る夢 霖雨つつ
霖雨とは何日も続く長雨を指す。孤独や悲哀を抱えながら句を作った峠三吉に共鳴した。
峠三吉 詩
1945年8月6日、司有は学徒動員で日本陸軍に所属し岡山にいました。夜、広島の方面を見ると真っ赤に燃えていて、それが強烈に脳裏に焼き付きました。日常を取り戻した後、その鮮烈なイメージをもとに油彩を用いて作品にしました。
峠三吉 詩
原子爆弾の後遺症や遺族の方の苦しみに対して、未来への不安に満ちた時代。司有の戦争時の体験が峠三吉の詩に重なり、書かずにはいられなかった。筆致がより強いメッセージを放っている。
峠三吉 詩
泣きながら書いているうちに筆に水を含ませた状態で墨を付けるとこのような濃淡が出て、それが司有の深い悲しみをより表現している。
小園愛子 詩
1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。平和への祈りと鎮魂の思いを託し一つ一つの燈籠を流す。その様子を表した詩を色彩で表現した。
水上都市
司有は、文字であらわすことのできない、感情・願い・思い出などを、心の象(ぞう)と書いて「心象(しんしょう)」と名付けました。
その中には筆を用いずキャンバスボードに直接水をたらして固形の墨をこすりつけるようにして書きあげたものもあります。
心象作品のほとんどにローマ字で「SIN(エスアイエヌ・しん)」のサインが使われています。
異星人来たる
秘唱
酩酊船
無限の夢
暁禾
甲骨幻影
海の城郭
懐郷
焼野
天火の彼方
國難折伏
彗星の降下する日
オランダの夢